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季節の話題
TOPICS NAGANO
2004

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季節の話題 TOPICS NAGANO 2004

 このページは、管理人ひろさくが各地を訪ね拾い集めた「季節の話題」のなかから、徒然なるままに書き記したものです。特定の分野に限定せず、管理人の思いつくまま、気の向くまま、町や村の話題を取り上げていますので、関心を持たれた場所だけご覧ください。更新は不定期ですのであしからず。

 TOPICS NAGANO 2004
  「JAグリーン長野アグリまつしろ」 五周年誕生祭 ( 2004. 12. 12 )
  北陸新幹線工事・進行中ですが… ( 2004. 12. 11 )
  国道十九号線・仮復旧道路 二十八日に通行可能 ( 2004. 12. 11 )
  こんなところに鉱泉が… ( 2004. 12. 11 )
  【残念】 月刊ながの情報 休刊へ ( 2004. 11. 27 )
  信越放送本社ラジオアンテナ取り壊し作業 ( 2004. 11. 23 )
  国道十九号線笹平トンネル付近の様子 ( 2004. 11. 21 )
  台風二十三号に影響? 上松五丁目で亀裂 ( 2004. 11. 3 )
  「防災メモリアル 地附山公園」一部オープン ( 2004. 10. 24 )
  長野市信更町安庭の国道十九号線地滑り現場 ( 2004. 10. 24 )
  善光寺表参道のそば店の移転 ( 2004. 9. 11 )
  里山めぐり 葛山・富士ノ塔・旭山 ( 2004. 8. 1 )
  地附山地滑り災害から十九年 ( 2004. 7. 3 )
  今年は豊作? 広瀬地区で「ホウネンエビ」発生! ( 2004. 6. 19 )
  【ちょっとドライブ】 長野市芋井地区 ( 2004. 5. 15 )
  風水学も登場? 長野市内では建設ラッシュ ( 2004. 5. 8 )
  各地で開催 長野市内の御柱祭 その参 ( 2004. 5. 5 )
  長野の空もいいかも 長野市営グライダー滑空場 ( 2004. 5. 1 )
  各地で開催 長野市内の御柱祭 その弐 ( 2004. 4. 25 、2004. 5. 1 )
  インフィオラータ・イン・ナガノ ( 2004. 4. 24 )
  各地で開催 長野市内の御柱祭 その壱 ( 2004. 4. 18 )
  国道 406号線 茂菅バイパス一部開通 ( 2004. 3. 30 )
  ようやく完成! 都市計画道路・「東豊線」開通 ( 2003. 3. 13 )
  幻想的な風景 … 第一回長野灯明まつり ( 2004. 2. 7 )
  復元工事が進む松代城跡 ( 2004. 2. 1 )
  「FMぜんこうじ」番組収録見学 ( 2004. 1. 24 )


 「JAグリーン長野アグリまつしろ」 五周年誕生祭 ( 2004. 12. 12 )
Aコープ松代店
 市内松代町にある「JAグリーン長野アグリまつしろ」(Aコープ松代店)で十一日・十二日の二日間、開店五周年を記念する誕生祭が開催され、年末の準備に追われる主婦らを中心に賑わった。
 JAグリーン信州が営業するこの店は、上信越自動車道長野ICの南、信州松代ロイヤルホテルの東隣に位置し、商業店舗のAコープ松代店のほか、農業商品を扱うJAファーム松代店、ガソリンスタンド、インター松代象山屋薬局などで構成されている。
 「誕生祭」と名付けられたこのイベントでは、ジャンケン大会、もちつき大会、新潟中越地震チャリティコーナーとして地元の食文化として注目されている「ひんのべ」の販売、ビンゴゲームなどのアトラクションのほか、今が収穫時期の松代名物「長芋」や、野沢菜・白菜などの地物新鮮野菜が安価で販売された。

<管理人ひとこと>
 管理人の家では、母親が折り込み広告で近隣のスーパーの値段をチェック。そして、管理人が休日になる土・日曜日を待って、今回訪ねた「Aコープ松代店」や須坂の「楽市楽座」へ出動命令を下し、お目当ての品物が見つからなかった場合には、さらに近郷近在の農産物直売所へでかけ、値段や品質をチェックしつつ買物をする、というパターンがここ数年続いています(こりゃたまらんデス)。「Aコープ松代店」は、自宅からでもそこそこの距離にあるのですが、どうもここの友の会の会員にもなっているらしく、今回も「5%引き」のお便りが届いたため出動命令となったのでした。ま、一円でも安い品物を探すという主婦の気持ち、わからないこともないですが(笑)。
 「Aコープ松代店」には、駐車場が表に二百台、南側に二百台、ちょっと離れた所に五十台、計四百五十台用意されています。広い駐車場は便利ですね。最近では、長野ICを利用する県外の観光客の皆さんも立ち寄ることが多くなったとか。「新鮮野菜のお買物ツアー」など企画して、観光バスも立ち寄るようになれば、また面白いかもしれません。そうそう、余談になりますが、入口にある「宝くじ売場」では、昨年の年末ジャンボで一等賞がでたようですよ〜。ぜひでかけてみてくださいね。

この記事は、平成 16年 12月 12日に取材・撮影したものです。
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 北陸新幹線工事・進行中ですが… ( 2004. 12. 11 )
千曲川の工事現場
(豊野町蟹沢)
 来年一月に長野市と合併する上水内郡豊野町と中野市を結ぶ北陸新幹線の第四千曲川橋りょう工事(鉄道建設・運輸施設整備支援機構)が進んでいる。
 この橋は、豊野町蟹沢と中野市立ヶ花を結ぶもので、全長三百十二メートル、幅十一メートル。平成十五年十一月から工事が始まり、完成時には三つの橋脚が設けられることになっている。名称は公募により「アップル大橋」に決まった。

<管理人ひとこと>
 とはいうものの、ここにきて長野市長沼以北の工事に不穏の動きもあるようで…。すでにマスコミなどでも報じられているように、長沼地区では車両基地建設を認める代わりに、浅川の治水工事を早期に行うことを県と確認書を交わしていたとのことですが、その後、ダム建設の撤回など治水工事に変更が行われたにもかかわらず、県からは何ら具体案が示されずにいたようです。工事は進むものの、地元に説明がなければ、長沼の住民の皆さんだって県に対して不信感を持つのは当然のこと。十二月に入ってから知事も参加して地元での説明会が行われたようですが、どのような意見がでたものなのでしょうか。肝心の長野市以北の用地取得が捗らなければ、北陸新幹線の開業スケジュールにも影響がでることが予想されます。たいへんだぁ。

この記事は、平成 16年 12月 11日に取材・撮影したものです。
新幹線の工事状況につきましては 長野県公式ホームページ をご覧ください。
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国道十九号線・仮復旧道路

 国道十九号線・仮復旧道路 二十八日に通行可能 ( 2004. 12. 11 )
 国土交通省長野国道事務所は、十月の台風災害のため通行止めが続いている長野市信更町安庭の国道十九号線の仮復旧道路を今月二十八日に開通させると発表した。完成する道路は、幅八メートル、長さ二百五十メートルで、災害発生後、地滑りが起きた現場での調査や復旧方法を検討、仮復旧道路の工事に着手していた。

<管理人ひとこと>
 十一日の長野市民新聞掲載の記事をみて、早速、以前訪ねた現場に向かいました。写真は、上水内郡中条村日高から撮影した災害現場の写真です。さて、その市民新聞の「善光寺平」というコラムに、非常に興味深い記事が掲載されていました。そこには、国土交通省長野国道事務所によるボーリング調査の結果を引用して意見を記しているのですが、締めくくりに、筆者は今回の災害を単なる「自然災害」だけで片付けてよいのか疑問を提起しているのですね。
 もともと、ここは「山抜け」(土石流等)の発生地帯で、江戸時代末期に起きた善光寺大地震では、背後というか、現場の南側にある虚空蔵山(岩倉山)が大崩壊し、三方向に流れ出た土砂のひとつは、現在の「水篠(みすず)橋」付近で犀川を堰き止めた(湛水は後に決壊)歴史があります。崩壊後の地盤はそれ相応に安定していたからこそ、白馬長野有料道路の建設工事ででた残土を急ピッチで埋め立てたことと思いますが、微妙な地盤の上での地下水の処理は、果たして適切だったのか、筆者が疑問を投げかけるのも無理はないことと思います。なるべきしてなった災害、それが今回の地滑りだったのかもしれません。筆者は、あの昭和六十年に起きた地附山地滑り災害にこそ踏み込んでいませんが、誰が見ても、まさにそれと同じ事例と気付きます。
 やはり急ピッチで行われる工事というものには無理があるのでしょう。便利になったところまではよかったのですが…。

この記事は、平成 16年 12月 11日に取材・撮影したものです。
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小田切ダムルートは通行止ほんとうにちょろちょろと…

 こんなところに鉱泉が… ( 2004. 12. 11 )
 以前、長野市民新聞に掲載された市内七二会(なにあい)特集に、小田切地区保玉( 地図 )に鉱泉が湧き出ているという記事があったことを思い出し、中条村からの帰りに立ち寄り撮影したのが上の写真だ。現場は国道十九号線と犀川を挟んだ対岸の一画。土砂崩落により、現在、小田切ダム側は通行止めとなっているが、老人ホーム七二会荘を経由すればたどり着くことができる。
 斜面の水抜き用のパイプからちょろちょろと微量に流れ出す水は、確かに硫黄臭のある鉱泉だった。手入れがなされた形跡はなく、衛生的にも、浴用にも、本当に利用できるのか疑問のフシもあるが、置かれたタンクには満々と硫黄水が蓄えられており、いつでもくみ出しができるようになっていた。もし「ウチのお風呂に入れてみようかな」と思う方がいたら利用してみても(?)いいかもしれない、参考まで。

この記事は、平成 16年 12月 11日に取材・撮影したものです。
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 【残念】 月刊ながの情報 休刊へ ( 2004. 11. 27 )
 全国初のタウン誌として知られる「月刊ながの情報」が、今月二十五日の十二月号をもって一時休刊となった。昭和四十七年( 1972 )十一月に創刊準備号を発刊してから三十二年間にわたり「ながの」の情報を伝えてきたが、インターネットや携帯電話の普及による情報ツールの多様化により、近年は発売部数も減少傾向にあったという。今後の発刊は未定。

<管理人ひとこと>
 管理人が初めて「ながの情報」を手にしたのは小学生高学年くらいの時。B5サイズほどの大きさで値段も百円くらいでしたか。中学生の頃には、表紙にラジオのパーソナリティーが登場し、当時流行っていたNHKのFM番組「六時のジョッキー」のDJの皆さんのお顔もここで初めて知った、といったことがありました。さらに、高校時代には、たまたま出したハガキを見た担当の方からお電話を頂き、今の編集部で取材。高校の文化祭にもお見えになられ、雑誌に掲載して頂いたこともありました。
 あれから二十数年…。「情報」が少なかった当時の状況とは一変し、インターネットや携帯電話の普及で、いつでも、どこでも「情報」を得ることができるようになりました。ただ、我々のような年代には、スグに得たい情報は毎日のニュースくらいで、地元の話題は月刊のペースでも充分楽しめました。しかし、情報が氾濫する今の時代に生きる若者たちには、月刊はおろか、週刊でさえも待てないのでしょう。本離れも進んでいますから。こうした時代背景を考えた時、雑誌による「情報」の提供にはもはや限界が来ているともいえるのかもしれません。「ながの情報」のスタッフの皆さま、ごくろうさまでした。

この記事は、平成 16年 11月 27日に取材・撮影したものです。
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取り壊し作業が行われている信越放送本社のラジオアンテナ

 信越放送本社ラジオアンテナ取り壊し作業 ( 2004. 11. 23 )
 先週の土曜日から信越放送本社(長野市吉田)にある高さ一〇三メートルのラジオアンテナの取り壊し作業が始まった。このアンテナは昭和二十七年に建設されたもので、北信地方一帯と新潟県の一部をサービスエリアに電波の送出が行われていたが、五十二年が経過しアンテナ本体の老朽化が進んだことや、信越放送の新本社移転が予定されていることなどから取り壊しが決まった。放送は、十月より市内屋島に設けられた新アンテナに切り替え済み。二十三日も、作業員二人が慎重にアンテナ本体をガスバーナーで焼き切りながら取り壊ししている様子が見られた。作業は、二十五日まで行われるとのこと。

<管理人ひろさく>
 このアンテナが建てられたのは昭和二十七年のこと。市内吉田に建てられたこのアンテナは、演奏所(本社スタジオ)に隣接して建てられた(一般的には演奏所とは別にアンテナだけ郊外に建設される)全国的にも珍しいもので、今では住宅地が広がるこの地区が、当時、いかにのどかな田園地帯であったかを物語るものでもありました。以来、長野市を中心に北信地方および新潟県の一部をサービスエリアに、なんと五十二年間にわたり電波が送出されていたわけです。考えてみれば、管理人が生まれる前からこのアンテナは存在していたのですよね〜。ほんとうにご苦労さまでした。

この記事は、平成 16年 11月 23日に取材・撮影したものです。
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笹平トンネル手前笹平付近

 国道十九号線笹平トンネル付近の様子 ( 2004. 11. 21 )
 白馬・小谷方面に出かける途中、通行規制が行われている国道十九号線笹平トンネルとその周辺を撮影してみた。左は、国道十九号線の笹平トンネル手前(長野方面)付近のもので、ご覧のように現在も通行止め。松本・大町・白馬方面へは、ここを左折して旧道(旧国道)を進む状況が続いている。右は、左の笹平トンネル手前を左折し、笹平集落を抜けたところにある分岐を撮影したもの。。災害発生当初からしばらくの間、ここでは信号機による規制はなく、常時「青信号」のまま直進できたが、現在は、ここで半ば強制的に片側通行としている。
 一時、全面通行止め(のちに片側通行規制)となった中条村日高の県道長野大町線は、復旧作業が終わり、現在は通行規制が解除されている。参考まで。

この記事は、平成 16年 11月 21日に取材・撮影したものです。
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上松五丁目の亀裂現場 (真光寺バス停から撮影)

 台風二十三号に影響? 上松五丁目で亀裂 ( 2004. 11. 3 )
 三十日、長野市上松五丁目の県道戸隠高原浅川線の真光寺バス停から浅川を挟んだ対岸で、およそ百メートルの範囲に幾つか亀裂があるのが見つかった。現在、現場には雨水の浸透を防ぐための青いシートがかけられ、伸縮計をおいて状況を監視しているという。写真は、ループ橋手前の「真光寺バス停」から撮影したもの。

<管理人ひとこと>
 台風二十三号の影響で、長野市周辺の山間地では土砂崩落や亀裂が相次ぎ、十一月になっても、まだ通行止めが解除されていない道路があるようです。通行可能な道路でも、地盤が緩んでいたり、落石の危険があるそうなので通行には注意が必要です。

この記事は、平成 16年 11月 3日に取材・撮影したものです。
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防災メモリアル 地附山公園 展望台から望む長野市内
展望台休憩所と遊園施設

 「防災メモリアル 地附山公園」一部オープン ( 2004. 10. 24 )
 昭和六十年七月に大規模な地滑り災害を起こした市内上松の地附山で整備が進められている「防災メモリアル 地附山公園」の一部(計画面積六・三ヘクタール、うち二・五ヘクタール)が、二十三日から市民に開放された。
 晴天に恵まれた二十四日は、大勢の市民が公園を訪れ、園内に設けられた遊具施設で楽しむ子供たちの姿が見られた。今期の開放は来月二十三日までで、午前八時半から午後四時半まで園内に立ち入ることができる。冬期は閉鎖。詳細は 長野市ホームページ を参照のこと。

 <管理人ひとこと>
 二十四日の日曜日は、晴天にも恵まれたこともあり、園内は大勢の家族連れで賑わいました。ゲートのある旧戸隠バードライン料金所跡から公園まで、驚くほどの急勾配を駆け上がり公園入口に到着すると、通常の駐車場も臨時駐車場も満車といった状況で、しばらく順番待ちのため停車。その後に、市の職員さんの誘導で普段は車の通行ができない園内の通路(旧戸隠バードラインの一部)を車で通り抜け、さらに上の道路沿いに縦列駐車する…といった混雑ぶりでした。
 今回は、展望台などがある公園上部だけの訪問となったわけですが、写真にもある展望台からの眺めは抜群で、夏に登った旭山の山頂からの眺めに匹敵する好展望でもありました。公園内にはたくさんの遊具が置かれていますので、どちらかといえばファミリー向けというイメージの強いこの公園ですが、景色を楽しむだけでも訪ねてみる価値がありそうです。

この記事は、平成 16年 10月 24日に取材・撮影したものです。
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犀川に向かって流れ出した土砂の様子
長野市信更町安庭付近
寸断された国道十九号線白馬長野有料道路分岐

 長野市信更町安庭の国道十九号線地滑り現場 ( 2004. 10. 24 )
 九日に東海沖を通過した台風二十二号がもたらした大雨の影響で、地滑りを起こして現在は不通になっている国道十九号線を訪ねてみた。
 この地滑りは、長野市信更町安庭(やすにわ)地籍で九日午後五時に起きたもので、国道十九号線と白馬長野有料道路との分岐一帯が陥没。土砂は、近くのソバ店と民家を巻き込み、犀川に向かって流れ出したというものだった。新聞報道では、今回の台風による大雨よりも、それ以前から降り続いていた雨で地盤が緩んていたのでは…、と原因を推測している。
 現在、長野市から松本・大町・白馬方面に向かう場合は、国道十九号線の笹平トンネル手前から旧道に入り、笹平集落を抜け、県道長野大町線を通るルートが、また松本・信州新町方面からは、安庭の地滑り現場手前で白馬長野有料道路(料金無料)を通り、県道長野大町線を利用する迂回路が確保されている。
 写真は、犀川を挟んで対岸側になる上水内郡中条村日高地籍から地滑り現場を撮影したもの。国道の路面が「すぱっ」と分断され、上部から流れ出した土砂が、有料道路との合流地点にあったモニュメントを、そっくりそのま押し流した様子がわかる。犀川に流れ落ちた店舗と民家は、滑落当初は原型を留めていたが、今は土砂に半ば埋まり、無残な姿を川辺に晒している。
 中・下の写真は、同地籍の村道( 地図 )から現場の信更町安庭地籍全体と、地滑り現場を部分的に拡大して撮影したもの。

 <速報>
 二十六日午前十時すぎ、迂回路として利用されていた上水内郡中条村日高の県道長野大町線で地滑りが発生。片側一車線が下を流れる土尻川に滑り落ち、現場は全面通行止めになっている。

この記事は、平成 16年 10月 24日に取材・撮影したものです。
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閉店した「富蔵屋」(左)と「太田屋」(右)

 善光寺表参道のそば店の移転 ( 2004. 9. 11 )
 善光寺表参道で営業をしていた「 富蔵屋 」と「太田屋」が閉店し、通り沿いで営業するそば店が「大丸」「藤木庵」「大善」「今むらそば」の四軒となった。「富蔵屋」は、上高井郡小布施町に移転、「太田屋」はこれまで営業を続けていた場所に十三階建マンションの建設が決まったことによるもので、「太田屋 助右衛門」の名称で田町(イトーヨーカ堂駐車場・長野電鉄立体駐車場東側)に移転し、ともに新装オープンとなる。

 <管理人ひとこと>
 沿道にあった、信州ならではの有名な「そば店」が二つも移転し、状況とすれば寂しい限りですが、一方では、「二八そば」「九一そば」「十割そば」など、上手く住み分けができたと評価される結果にもなっているようです。今後、残った四店が、自店の特徴をどのように打ち出してくるのか、注目していたいと思います。

この記事は、平成 16年 9月 11日に取材・撮影したものです。
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葛山山頂富士ノ塔山頂
旭山山頂展望台から望む長野市内

 里山めぐり 葛山・富士ノ塔・旭山 ( 2004. 8. 1 )
 ひさしぶりに長野市近郊の里山めぐりをしてみた。大きな山に登ることも楽しいが、里山は気軽に出かけられるし、天候をあまり気にせず、ゆっくり山頂でくつろげるといった魅力があるので、時間があればできるだけ出かけるようにしている。
 今回訪ねたのは、長野市民にはお馴染みの葛山(かつらやま)・富士ノ塔・旭山の三つ。何れの山も、戦国時代には山頂に地元の豪族の城跡(砦)が設けられ、川中島合戦時には北信州の主権を握るために、甲越両軍の激しい争奪戦が繰り広げられた歴史のある場所でもある。
 最初にチャレンジしたのは、標高 812m の「葛山」。この山へのルートは、長野市往生地からのもの、西長野から「頼朝山」を経由して山頂を目指すもの、県道長野戸隠線にある静松寺から直登する三つがある。今回は、静松寺裏手からNHKの伝送通路を辿りながら一気に山頂を目指すコースを利用してみた。所要時間は約四十分。たどり着いた山頂は、草が生い茂る平坦地になっていて、隅には東屋が設けられていた。またその脇には、市観光課で立てた「葛山城跡」の案内板があり、この城跡の歴史を詳しく紹介している。戦国乱世に関心のある方なら、きっと興味深く読まれることだろう。山頂からは、丹波島から先は一望できるが、市内中心部は全く望むことはできない。評価でいえば、星三つほどだろうか。
 続いて出かけたのは、「葛山」の南西、裾花川の対岸に位置する「富士ノ塔」。その名の通り、空気が澄んでいると、富士山が見えるという小田切地区の好展望所。近くに林道が走っているため、あまり歩かなくても山頂にたどり着くことができるのがこの山の魅力(?)だったりする。展望台からは、川中島・篠ノ井・松代方面がよく開け、「今井ニュータウン」などは指呼の間…という位置にある。南に一直線に伸びる新幹線の高架橋も印象的だ。
 最後は、旭山( 785m )へ。「旭山」の登山道は、昔から麓の里島発電所から一時間かけて登るのが定番とされていた。というのも、以前、この登山道の途中に「旭山観音堂」というものがあり、受験シーズンともなると、冬の凍てつくなかこのルートを登り、参拝に訪れる受験生が後を絶たなかったという場所でもあったからだ。したがって、妻科からのルートは、どちらかといえば、旭山の登山道というより、「観音堂」への参拝路として定着していたのだった。だが、その観音堂も山頂の南側にお移りになり、今は車でも行けるようになっている。
 現在、「旭山」へのルートは、前記ルートのほか、山頂裏手まで車で行き、車止めから約二十分ほど歩くだけで山頂にたどり着くことができるようになっている。山頂展望台までは、山頂から十分ほど東側へ下ったところにある。期待していた眺めは、正面こそ開けているものの、左右は大きな木が視界を遮っているため、満足度は六十パーセントといったところか。それでも、普段見慣れた町並みも、ちょっと高い場所から見れば、このようになっているのかぁと新鮮な感動を覚えたのも事実。展望台にはベンチも用意されている。小学生も遠足に訪れている市民の山でもあるので、時間があれば訪ねてみてもいいだろう。
 最後に、これらの里山周辺では、最近、熊の出没が相次いでいるとか。携帯ラジオや大きな鈴を持参することを忘れずに…。

 <管理人ひとこと>
 暑い時の里山ねぐりも、なかなか堪えるものですね。でも、おかげさまで二キロの減量となりました。ん〜、やはりカラダを動かすことは大切ですね。今回の「里山めぐり」については、後日、特集記事にしてご紹介します。

この記事は、平成 16年 8月 1日に取材・撮影したものです。
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現在は「立ち入り禁止」となっている旧料金所付近

 地附山地滑り災害から十九年 ( 2004. 7. 3 )
 この時期になると思い出すのが「地附山地滑り災害」。
 これは、昭和六十年七月二十六日の午後五時、長野市上松の地附山で大規模な地滑りが起こり、直下の湯谷団地の家屋を全半壊。長野市と上水内郡戸隠村を結ぶ「戸隠バードライン」の料金所方面に流れた土砂は、長野広域行政事務組合(当時)の特別養護老人ホーム「松寿荘」を襲い、職員らによる懸命な救出活動にもかかわらず、最終的に二百十九名のうち二十六名の寝たきり老人が生き埋めとなる惨事を招いたできごとだ。
 この災害、発生当初は、梅雨時期における平年降雨量の二倍もの大雨によるものとされていた。しかし、これに対して湯谷団地の住民が反発。地滑りが起きた一帯は、昭和三十九年十月に本工事が完成した「戸隠バードライン」を囲むように発生しており、明らかに人工の造作により招いた結果である、と主張したのだった。確かに、災害後の地附山の姿は誰が見ても、「戸隠バードライン」の建設が引き金になったのでは…と思えるような姿を晒していた。その後行われた裁判でも、本質的な原因はこの「バードライン」の建設と事後管理の面における行政側の瑕疵(かし)によるものであるとされ、当時としては異例ともいえる住民勝訴の結果となっている。
 実際、地滑りが起きる四・五年前に行われた地質コンサルタント会社のボーリング調査で、すでに地滑りの危険が指摘されていたといわれる。どのような対策を講じたのかはわからないが、以降も構築物が変形するなどの影響が出ていたというのだから、十分な対策が行われていなかったのは事実のようだ。
 地滑りが起きる昭和六十年七月の初旬頃には、地滑りした区域に建設されていた「戸隠バードライン」の異変は顕著となり、道路を管理する県企業局では、三日の時点で地滑りの発生が予見されため夜間の通行を禁止する処置を、十二日には料金所から約二キロの区間を全面通行止め、二十一日には湯谷団地(県の分譲)西側斜面で土砂崩落が起こり一時避難(後に解除)という対策を行ったが、事態は刻々と悪化し、とうとう二十六日の午後五時に崩落が始まってしまう。
 ただ、これで事態が収束したわけではなかった。流下した土砂は、当時の長野広域行政事務組合が管理する特別養護老人ホームへと流れ込む。湯谷団地の住民たちには、午後三時頃から急変した伸縮計のデータをもとに避難勧告がなされたため一人の犠牲者もでなかった。だが、不意を突かれた特別養護老人ホームでは、事前に避難連絡はなく、職員は帰宅のためバスを待っているような状況だった。緊急事態の発生に、再びホームに戻り救出活動となるわけだが、相手は老人ということもあり難航。その間にも、五号棟、ついで四号棟と土砂は容赦なく流入し、結果として二十六名が命を落とすこととなる。
 被災後、被害者家族からの問い合わせに対して、特別養護老人ホームの管理者である長野広域行政事務組合は、災害発生の原因は「バードライン」を建設した県にあり、損害賠償には応じられないという姿勢(当時)を崩さなかったという。
 道路の管轄は「県」、施設の管轄は「広域行政事務組合」と完全に分離されたことにより、以降、「地附山地滑り災害」の問題は、容易に解決できない状況となり、結果、行政と住民との間に感情の縺れを残したまま今日に至っている。あの浅川ダムの建設において、建設推進を進める行政側の姿勢が問われるようになったのは、潜在的にこの「地附山地滑り災害」の悪夢を危惧する住民たちが大勢いたことに起因する。

発生直後の地附山地滑り災害
発生直後の地滑り災害 (写真は崩落寸前のテレビ中継アンテナ)

 ただ、この出来事により、都市部における災害への対応を官民ともども考えさえられることとなったのは事実だ。危険箇所や緊急時の避難場所を記載したハザードマップが作成され、長野市全戸に配布された。防災無線も設置。地滑り地帯には水抜き井戸が設けられ、土塊の滑動を抑えることも行われるようになった。
 一方で、特別養護老人ホームに自分の親を預けていた人たちに対する世間の批判が、当時は集中していた。マスコミも災害とは別の視点で、読む側がイヤになるくらいに、親を預けて都会に出てしまった家族そのものを批判する記事を掲載していたように思う。迷惑だったのは、家族そのものだったことだろう。ただ、現代の「姨捨山」ともいわれた特別養護老人ホームの状況(立地条件等)や家族との係わりを描いたことは、今後ますます深刻になる高齢者社会に対して一石を投じる結果になったことは、けして意味のなかったことではなかったはずだ。
 当時、親を失った家族らは、損害賠償請求はするものの、二度とこのような災害が起こらないために、全額寄付による基金を設立すると公言していた。その後、賠償金が支払われたのか、基金設立が行われたのか不明だが、遺族会と長野市を中心とする行政側との確執は、本年の慰霊祭欠席(一部の方々のようだが…)の事態を見る限り、まだまだ続いているものと思われる。遺族会としては、十九年前の惨事を風化してほしくない、ということを希望しているだけと思うのだが、報道された市長の言葉を見る限り、両者との間に感情の縺れや納得できない事情でもあるのか、未だに問題を複雑化させたままでいる。
 あれから十九年。災害のあった地附山にも緑が増え、惨事を知らない人たちには周辺の山々と変わらなく映るまでに姿を変えた。今秋からは、公園として開放されることになっている。料金所跡に残る慰霊碑にどれだけの人が気付くだろうか。

 <管理人ひとこと>
 この日のできごとは、なぜかよく覚えています。たまたま用事で長野に戻ってきたところ、善光寺の裏を中心にして、上空にヘリやセスナ、小型ジェットが多数旋回し、ただならぬ状況に…。城山公園に向かうと、すでに地附山のテレビ中継所が崩れ落ち、パトカーが全速で上松からの坂道を駆け上がるといったものでした。時刻は午後五時半頃。この時、ちょうど松寿荘が災害にあっていた頃だったのかもしれません。
 最近、後輩たちと話をしていても、地附山にそのような大きな災害があったことを覚えていない人たちが大勢いることを知りました。ただ、土砂崩れで中継所が流されたため、夕方の「夕焼けニャンニャン」が見れなかったことがあった…という程度(泣)のことは覚えているようですが。ま、無理もありませんね。ただ、こうした事実を、もっと記録として残すなり、それが公表される場というものを設けることも必要じゃないのかなって個人的には思っています。

この記事は、平成 16年 7月 3日に取材・撮影したものです。
また、この記事は昭和六十年、管理人が作成したレポを基にしたものです。
当時と状況が変わっている部分も多々ありますのでご容赦願います。
地滑り災害から二十年については ここ をご覧ください。
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 広瀬地区で「ホウネンエビ」が発生! ( 2004. 6. 19 )
ホウネンエビ…?
 長野市広瀬の田に「ホウネンエビ」が大量に発生しているという新聞記事があった。あまり聞いたことのない「ホウネンエビ」という名称。「ホウネンエビ」とキーワードを入れて調べてみたら、全国各地で見られる生き物で、学術的には「甲殻網無甲目ホウネンエビ科」に属するものだという。さらに、この「エビ」が発生した年は豊作になるといわれており、まさに名前の通りのめでたい「エビ」であることもわかった。
 そこで、週末を待って、広瀬の田に出かけてみたのだが、なかなか簡単のようでて見つからない。話では、全てに発生するわけでなはく、決まった一枚の田とかがあるのだそうだ。理由は不明。ただ、新聞の記事には、農薬の使用量を減らしたら「ホウネンエビ」がでてくるようになった、ということだから、その辺りが探す上でのポイントになってくるのかもしれない。
 翌週は、大雨となってしまい、以降も出かける機会がなく時だけが過ぎてしまった。来年こそは、ぜひ、この「ホウネンエビ」にお目にかかりたいと思っている。

 <管理人ひとこと>
 なんでも、寿命が短いらしいので、来年は情報が入り次第、すぐに正体を突き止めるべく、取材に励みたい(笑)と思っています。

この記事は、平成 16年 5月 19日に、長野市芋井池平付近で取材・撮影したものです。
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長野市芋井池平地区 (正面は葛山・右に長野市街地)

 【ちょっとドライブ】 長野市芋井地区 ( 2004. 5. 15 )
 たいへんお恥ずかしいことながら、長野市に住んでいながら「入山」「広瀬」「池平」「桜」「鑪(たたら)」という地籍を知るようになったのはつい最近のことだ。というのも、「桜」に住む顧客の家を訪ねることとなり、地図を引っ張り出してきて探していた時に、たまたま、これらの地名を見つけたからだった。
県道の標示
 芋井地区へのルートには、主要地方道長野戸隠線からと、国道 406号線利用の二つがある。今回は、先ず、国道 406号線経由で「入山」に向かい、帰りは「広瀬」「池平」経由でゆっくり戸隠線を「桜」まで下ってくるルートを考えてみた。
 ところが、国道から「入山」の県道との分岐までの間は、なんと★車一台分がやっとという狭さで、坂道の上に急カーブの連続。長野市でも、こんな場所があるのか?と疑いたくなるような急斜面に下犬飼・上犬飼の集落は存在していた。ただ、それも県道との分岐まで。その後は比較的平坦な道を「桜」まで走ることとなる。「桜」( 地図 )は、お馴染み「神代桜」のある場所。支所や農協、小中学校もある芋井地区の中心地だ。「鑪(たたら)」は、その「桜」の東側で、長野市から県道を利用して上がっていくと、最初にたどり着く集落でもある。ここから、国道 406号線までは、再び、急カーブ・急坂が続く。
 この芋井地区。じつは、リンゴの産地として知られている。こんな山間地になぜ?と思われる方も多いことだろう。それには、地層に理由がある。芋井地区の地層は、裾花川を挟んだ長野市小鍋地区などの「裾花凝灰岩」層ではなく、砂や火山灰が堆積し、それらが粘土質化した「第三紀層」とよばれるもので構成されている( 参考 )。この地層、降雨があると浸透した地下水が粘土質面の表面に溜まり、後は滑り台のように土砂ごと流れ出す厄介なもので、長野市のハザードマップでも「地滑り地帯」に指定されているほど。ただ、かつての崩落地帯は急斜面の部分が崩され、土地が均(なら)されている。つまり、農業には最適の場所でもあるのだ。
 写真は、「入山」から少し長野よりにある「広瀬」境から捉えた「池平」地区( 地図 )の風景だが、どうだろう。南向きに面した場所では、こうした「棚田」が幾つも作られており、けして山ばかりの不毛の地とはいえない風景が広がっていることに気付くはずだ。こうした風景は、あの「入山」地区でも見ることができる。「災い転じて福となす」。まさにその言葉のまま、立地条件の恩恵を存分に受けている地区でもあるのだ。

<管理人ひとこと>
貉の切割り
三面観音
 長野市内に住んでいても、芋井方面には、ほとんど用事のない管理人。通常、戸隠方面にでかけるにしても、浅川ループ橋か、七曲経由となるため、県道戸隠線を利用することは、百回あっても一回くらいの割合でしょうか。事前にウワサは聞いていたものの、実際に利用してみると、これは大変なところに来てしまった…というのが、住んでおられる方々には申し訳ないのですが、正直な感想です。でも、ここには、トラックも路線バスも通っているのですね。夏場はともかく、冬場は怖いなぁ…と思いましたが、実際はどうなのでしょ。
 さて、そうはいっても、ここはかつて戸隠参拝のため往来があった旧道の跡。名所旧跡が、道端のところどころに散在している場所でもあり、走っていても楽しい一面もありました。そのうちの二つをここでは紹介してみましょう。
 ひとつは、「池平」と「桜」の境近くにある大きな岩( 地図 )。旧道はこの岩のすぐ上側を通っていました。善光寺大地震の被災状況を松代藩がまとめた「松代封内巡見図」には「貉(むじな)の切割り」と記されており、戸隠道の難所のひとつでもありました。昭和五十年くらいまでは「石切場」になっていたそうで、当時を知る人のなかには「赤岩」と呼ばれてもいます。また、芋井支所から少し下った「鑪(たたら」バス停( 地図 )には、街道を行き交う旅人の安全を祈願した「三面観音」が鎮座されています。昭和五十三年に竣工した際に設けられたと思われる案内板が立てられていましたので、参考までにこの文を引用しておきます。
 「この馬頭観音は、嘉永五年( 1852 )に旧戸隠入山街道の安全を祈願して、現地点より約三十米上方の三差路に建立されたもので、三面観音の呼び名で幾星霜、行き交う人に親しまれてきた。大正年間、県道戸隠線の開通によって旧街道は交通がと絶え、三面観音もいつしか忘れられ去られようとしていたが、地区住民の善意により再び守り本尊として現在に遷座。芋井老人クラブがお堂を建立寄進し、昭和五十三年九月十七日にお堂竣工式と交通祈願法要がとり行われた。県道戸隠線を往来する人たちの交通安全の心の寄りどころとなることを願うものである。」

この記事は、平成 16年 5月 15日に取材・撮影したものです。
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 長野市では建設ラッシュ ( 2004. 5. 8 )
建設中の信毎本社
 最近の長野市内の様子を見ると、分譲マンションや本社社屋の建設工事がかなりの急ピッチで行われていることに気付く。写真は、ほぼハコモノ部分の工事が終了した信濃毎日新聞本社ビル。このほかにも、旧そごうデパート跡地(長野銀座A−1地区市街地再開発事業)に、地上十一階と四階建ての複合ビルが建設されることになっている。複合ビルのうち、十一階建てのビルには、信越放送本社が市内吉田から移転。二年後には、新社屋からの放送が開始されることになっている。
 景気後退により、どの企業でも積極的な設備投資を手控えているこのご時世に、「生産性のない」社屋建設に敢えて踏み切るとは、まさに地元有力企業だからこそ、だろうか。もっとも「社屋建設」の理由には、現在の社屋が老朽化し、増加する業務に旧来の施設では支障をきたしていることや、放送局の場合には、地上波デジタル放送に向けての準備のためなど、更新せざるを得ない事情もあるのだろう。これも、成長企業に科せられた使命なのかもしれない。

 <管理人ひとこと>
 国道十八号線を長野市内方面に向かい、県庁前の交差点を右折。昭和通りに入ってすぐ左側(長野中央郵便局前)に、写真の信濃毎日新聞本社ビルが見えます。立派な建物ですなぁ〜♪

この記事は、平成 16年 5月 8日に取材・撮影したものです。
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弥栄神社(吉田五丁目)の御柱祭

 各地で開催 長野市内の御柱祭 その参 ( 2004. 5. 5 )
  諏訪大社の御柱祭に併せ、県内各地の諏訪社系神社でも御柱祭が行われているが、五日のこどもの日も市内の神社で開催された。長野市吉田五丁目の弥栄神社では、午前十一時、花火の合図とともに、東長野老人憩の家前を出発。約七メートルのスギの木二本の御柱を、約三時間かけて弥栄神社まで曳行され、お社の東と西に建てられた。境内では、獅子舞や「ナイアガラ」などの花火が行われ、七年に一度の御柱祭を盛り上げた。
 市内ではこのほか、若槻東条の「蚊里田神社」(かりたじんじゃ)でも御柱祭が開催されている。

 <管理人ひとこと>
 弥栄神社は、地元では「太田のお宮」と呼ばれているもので、運動公園の西側にあります。建立の時期などはわかりませんが、境内には「寛政」年間の碑もあることから、江戸時代には、すでに鎮座していたのでしょう。太田地区にお住まいの方によれば、今回の御柱祭に対して、一世帯で七千円、借家住まいなら三千円の寄付のお願いがあったそうです。御柱祭の運営も、なかなかたいへん…ですね。

この記事は、平成 16年 5月 5日に取材・撮影したものです。
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空を舞うグライダー着陸態勢…

 長野の空もいいかも 長野市営グライダー滑空場 ( 2004. 5. 1 )
  市内若穂の千曲川河川敷に、長野市営グライダー滑空場があり、週末ともなれば屋島橋付近を優雅に飛ぶグライダーの姿を望むことができる。若穂にグライダー滑空場ができたのは、昭和四十九年( 1979 )の四月。平成十五年三月に新滑空場の整備が行われ現在に至っている。
 中心に活動されている「長野市グライダー協会」では、一日体験コースの参加(活動日・実費 3,500円 〜 )も受け付けており、健康診断等の条件をパスすれば後部座席に搭乗することも可能とか。機会があれば、ぜひ、空から長野の街を見てみたい。( 長野市体育課

 <管理人ひとこと>
 いつも土手からグライダーの飛ぶ姿を見て、いいなぁと感じている管理人。ヘリをチャーターするお金はないけれど、グライダーなら乗せてもらえるかな…と思いつつ、なかなか決心がつかないでいます。でも、いつか、このHPに長野や須坂を上空から撮影して掲載してみようと思っています。長野市グライダー協会については こちら をご覧ください。
 <参考>
 飛行機といえば、長野県では松本空港が思い浮かびますが、戦前には長野市や上田市にも軍用の飛行場がありました。長野市大豆島の長野飛行場は、昭和十三年に完成、翌年の三月に開設しています( 滑走路延長 625m )。このため、終戦の二日前にアメリカ軍の空襲を受けることとなり、周辺住民に被害者をだした(長野空襲)。現在は、大豆島団地にその跡を偲ぶことができます。

この記事は、平成 16年 5月 1日に取材・撮影したものです。
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町川田神社(若穂)の御柱祭祝神社(松代町)の御柱祭

 各地で開催 長野市内の御柱祭 その弐 ( 2004. 4. 25、2004. 5. 1 )
  諏訪大社の御柱祭に併せ、県内各地の諏訪社系神社でも御柱祭が行われている。市内の神社では二十五日に、市内西和田の和田神社、篠ノ井小森の諏訪神社、市内七二会の諏訪神社、若穂川田の町川田神社(写真左)などで神事が行われた。
 また、五月一日と二日には、松代町にある祝(ほうり)神社でも御柱祭(写真右)が開催された。初日は、長野電鉄象山口駅前を出発。当地出身の松井須磨子や、佐久間象山の大砲試射の場面などを表現したという穂高人形を載せた山車も登場し、沿道の見物人らが見守るなか、国道 403号線を祝神社まで練り歩いた。

 <管理人ひとこと>
 五月一日・二日に行われた祝神社( 地図 )の御柱祭では、各町から個性的な山車が登場し、見物人を楽しませてくれました。山車とはいっても立派なものではなく、エンジンを止めた軽トラックに舞台を載せ、車に結び付けられた綱を町の人たちが曳くというもの。参加したのは、「元禄花見隊」(中町)、「人形山車 須磨子故郷へ帰る」(紺屋町)、「穂高人形 浦島太郎」(紙屋町)、「穂高人形 佐久間象山大砲試射」(伊勢町)、「宝船」(寺町)、木遣り隊と御柱(祝神社)、「牛車 かぐや姫」(馬喰町)、「田町神社の玉手箱」(田町)、「宝船」(鍛冶町)、「西遊記」(御安町)、「荒神太鼓」(荒神町)、『「富岡日記」和田実』(肴町)の全十一の山車。御柱は、一本で、地元の高校生が曳いていました。

この記事は、平成 16年 4月 25日、 5月 1日に取材・撮影したものです。
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高井大室神社の御柱祭インフィオラータ・イン・ナガノ

 インフィオラータ・イン・ナガノ ( 2004. 4. 24 )
 長野市中央通りの大門町交差点から善光寺交差点まで約四十メートルの区間に花を敷き詰め、「花の絨毯」を演出する「インフィオラータ・イン・ナガノ」が、二十四日(土)と二十五日(日)の二日間開催された。今年で三回目というこのイベント、これまでの二回は長野商工会議所などが主体で行っていたが、資金難などを理由に撤退したため、市民ボランティアのみなさんが中心になってこれを引き継ぎ、今回の開催にこぎつけた。
 プロデューサーは、昨年に引き続き、今岡寛和氏が担当。昨年の三分の一と規模は小さくなったが、チューリップの花びらとヒノキの葉を中心に、樹皮や小石を敷き詰め描かれた幾何学的な模様は、まさに「花の絨毯」というにふさわしいもの。訪れた見物客の多くが持参したカメラで華やかな花の芸術を写真に収めている姿が見られた。

この記事は、平成 16年 4月 24日に取材・撮影したものです。

 各地で開催 長野市内の御柱祭 その壱 ( 2004. 4. 18 )
 諏訪大社の御柱祭に併せ、県内各地の諏訪社系神社でも御柱祭が行われている。市内の神社ではこの日、市内七二会の守田神社、松代町大室の高井大室神社、小島の水内坐一神社などで御柱祭・里曳きと建御柱の神事が行われた。

 <管理人ひとこと>
 長野市七二会(なにあい)は、江戸時代に分村した橋詰村、五十平村、黒沼村、瀬脇村、岩草村、大安寺村、笹平村と、黒沼村から分村していた古間村と坪根村が明治九年に合併して七ヶ村と二ヶ村から「七二会」と称することになりました。御柱祭が行われる守田神社は、この七二会の 古間地区 (国道 19号線瀬脇交差点を北へ一キロほど)にあり、ここにある高さ四十メートルのスギのご神木(二本)は長野市の市天然記念物にも指定されています。今回の御柱は、古間地区と坪根地区の担当で、山中から切り出した杉の木二本が奉納されました。
鳳凰と仙人
 市内小島の水内坐一神社では、十二年ぶりに「門灯篭」と「踊り舞台」が御柱祭に併せて披露されました。江戸時代後期に製作されたという、この「門灯篭」と「踊り舞台」。どちらも特徴のあるもので、なかでも「踊り舞台」は、「鳳凰の上に仙人が乗っているところが珍しい」(四月十七日付・長野市民新聞)というもの。現在、市の指定文化財にも申請中とのことですが、地元でも新聞の記事を見るまで知らなかった人も多かったらしく、実際に「踊り舞台」に触れたり、写真に収めている姿が印象的でした。でも、この「鳳凰」、鶏(にわとり)によく似ていますね。もっとも、「鳳凰」は伝説の鳥なので誰も見たことないはずだから、彫刻師さんのイメージ、ということなのかもしれませんね…。

この記事は、平成 16年 4月 18日に取材・撮影したものです。
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完成した茂菅二号橋中部電力里島発電所

 国道 406号線 茂菅バイパス一部開通 ( 2004. 3. 30 )
 長野市小鍋〜西長野間( 地図 )の国道 406号線で行われている「茂菅バイパス」のうち、工事が進んでいた「茂菅二号橋」が完成し通行が始まった。もともとこの国道は、北安曇郡白馬村・上水内郡鬼無里村・戸隠村と長野市内(最終は群馬県高崎市)を結ぶ幹線道路だが、道路幅が狭く、急カーブが連続する難所続きで、とくに裾花川に面する茂菅地区は、頼朝山直下の土砂崩落地帯を通過するため、沿線住民からはバイパスの早期整備を望んでいた。
 「茂菅バイパス」については 長野建設事務所 に詳しく説明されているが、簡単に計画概要を記すと、バイパスの区間は「長野市大字小鍋字地蔵平〜大字西長野字新諏訪町」間の 1. 4km が対象となっており、長野市から鬼無里村方面に向かって、「茂菅二号橋」「茂菅トンネル」「茂菅一号橋」の二架橋・一トンネルでここを通過。最終的には、地蔵平団地入口付近から「松島トンネル」に接続する予定になっている。今回開通したのは、このうちの「茂菅二号橋」区間( 302. 2m )。ただ、「茂菅トンネル」が完成していないため、途中、約九十度の急カーブがあるのがネックとなっている。写真は、裾花川に架かる「旭日橋」から撮影した「茂菅二号橋」。

<管理人ひとこと>
 この「茂菅二号橋」のすぐ下に、管理人も小学校の時に遠足ででかけた中部電力里島発電所があります。この手前にある「旭日橋」は、今でこそ立派な車も通れる橋になっていますが、当時はぶらぶら揺れる「つり橋」になっていて、市民なら誰でも知っている「度胸試し」のスポットでもありました。また、里島発電所は、現在、中部電力の管理となっていますが、もともとは明治三十一年( 1898 )に長野電燈(昭和十二年に信濃電気と合併・昭和十七年に配電統制令により中部配電・後に中部電力へ)という会社が設けたもので、長野市(長野県内で初めて)に電燈が灯るきっかけとなった発電所でもあります。遠足の際には、確か、発電所の見学ができたように思いましたが、今はどうなのでしょうか?
 また、この発電所を左に見ながら数分歩くと、四月上旬に見ごろを迎える有名な「カタクリの群生地」があります。こちらは、たびたび新聞などでも取り上げられているのでご存知の方も多いのではないでしょうか。発電所の脇に、若干の駐車スペースがありますので利用してみてもいいでしょう。

この記事は、平成 16年 5月 15日に取材・撮影したものです。
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「東豊線」開通式開通式後の行進

 都市計画道路・「東豊線」開通 ( 2004. 3. 13 )
 長野市吉田と稲田・徳間地区を結ぶ都市計画道路「東豊線」(とうほうせん)が完成し、午前十時半から、市関係者・地権者・地区代表を招いて記念式典が行われた。平成九年度から進めていたJR信越線アンダーパス工事、長野電鉄線アンダーパス工事、浅川橋りょう工事が終了したことによるもので、二十七日には、「東豊線」の開通にあわせて、市内壇田(まゆみだ)と湯谷地区を結ぶ「北部幹線」も開通。周辺では、すでに区画整理事業(稲田・壇田地区)により新興住宅も誕生しており、「東豊線」開通に併せ、西友やラオックス、綿半などのスーパーや量販店の新規オープンが相次いだ。道路の完成により、東和田〜吉田〜稲田〜壇田〜湯谷のアクセスが整い、旧北国街道や若槻大通りの渋滞が大幅に緩和されることになる。

 <管理人のひとこと>
 「東豊線」「北部幹線」の開通はとても便利になりましたが、じつは困ったことも発生しているのが事実。というのも、両線の沿線沿いに量販店が出店したことにより、緩和のための道路が渋滞する結果となり、むしろ、旧道(例えばSBC通り・北長野通り)を使ったほうが便利なくらい。「急がば回れ」、昔の人はいい言葉を考えたものだなぁと関心してしまう毎日でもあります…(泣)。

この記事は、平成 16年 3月 13日に取材・撮影したものです。
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ライトアップされた「本堂」(左)と「鐘楼」(右)

 第一回長野灯明まつり ( 2004. 2. 7 )
 二月七日から十五日まで、善光寺境内を五色にライトアップした「 第一回長野灯明まつり 」(主催・同まつり実行委員会)が開催された。昨年の「信州夢絵巻 善光寺夢常夜灯」を発展させたもので、東京で活躍されている照明デザイナーの石井幹子さんが引き続きプロデュースを担当。本堂と仁王門のライトアップは、ほぼ昨年と同じだったが、現在、修復工事が行われている山門は、昨年、照らした緑色を鐘楼に振り向け、代わりにメッセージを映し出すといった演出となっていた。イベント初日の七日は、あいにくの雪模様となったが、雪国ならではの幻想的な場面を見ようと、約七万人(平成十六年二月二十一日付・週間長野)もの見物客が訪れたそうだ。

この記事は、平成 16年 2月 7日に取材・撮影したものです。
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完成が近い本丸・太鼓門発掘調査中の花の丸跡

 復元工事が進む松代城跡 ( 2004. 2. 1 )
 現在、松代藩主の居城だった松代城(海津城)では、「史跡松代城跡附新御殿跡環境整備事業」の一貫として、石垣・土塁・堀の整備、建物の復元工事が急ピッチで進められている。この松代城、もとは「海津(かいづ)城」と呼ばれ、戦国時代、この地で行われた川中島合戦においては、武田方の前線基地として使われた。その後、松平忠輝などが城主となり、江戸時代には、上田から移った真田信之(初代松代藩主、真田幸村の兄)が入り、以降、明治維新まで真田氏が城主を務めている。城内のほとんどの施設は、維新の際に取り壊されたり、移築されたため、城跡は長年にわたり風雨に晒されるままとなっていたが、今回、当時の図面や発掘調査を基に「本丸太鼓門」「北不明門」の概要が判明したことから復元されることとなった。復元事業が終了する四月には、「 エコール・ド・マツシロ 」の名称でさまざまなイベントも予定されている。今後、長野市の新たな観光地として注目を集めることになりそうだ。

この記事は、平成 16年 2月 1日に取材・撮影したものです。
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 「FMぜんこうじ」番組収録見学 ( 2004. 1. 24 )
番組収録風景
 縁あって、コミュニティーFMのFMぜんこうじで放送されている「手塚伸吉・小原ナオキ・うみんのプライベートクロス」の番組収録を見学する機会があった。以下はその様子から…。

 「FMぜんこうじ」で放送されている「手塚伸吉・小原ナオキ・うみんのプライベートクロス」は、地元で活躍するミュージシャンの手塚伸吉さん、小原ナオキさん、うみんさんの三人が、洋楽邦楽問わず注目のメロディーをピックアップして紹介する長野だけの音楽専門番組。毎週土曜日の午後一時五分から二十分間、小原さんがリードする滑らかなトーク、手塚さんが応えるベテランならではのコメント、番組全体をなごやかな雰囲気にさせるうみんさんの絶妙な合いの手(?)に、徐々にファン層を獲得。平成十五年四月からこのメンバーでお届けするようになってからは、ますます注目度もアップ。業界関係者の間でも、ホットな話題として取り上げられるまでになっています。
 この番組のもうひとつの特徴は、地元で活躍するバンドやソロのミュージシャンにも門戸が開かれていること。バンドのメンバー全員や代表の方を直接、長野市東後町にある「FMぜんこうじ」のスタジオに招き、音楽に対する考えや製作した自主制作のアルバム紹介、コンセプトなどを自由に語ってもらうというコミュニティー放送ならではの親近感あふれる番組作りが基本になっているようです。ミュージシャンや応援するファンの距離を「ぐっ」と狭めているのもこの番組が人気番組たる所以なのかもしれません。
 毎週土曜日午後一時五分、周波数 76. 5 MHZでお待ちしています☆

 番組に対するご意見・ご感想をお寄せください。
 宛先:  381-0832 長野市東後町 26-1 株式会社長野コミュニティ放送
 ( NAGANO ZENKOZI FM Community Station JOZZ4AB-FM 76. 5MHZ )
 TEL 026-237-8000 FAX 026-237-8001
 【注意】 FMぜんこうじは、平成 18年 10月に市内新田町に移転しました。

 <参考>
  FMぜんこうじ公式ホームページ
  Matenrou 9999 soul (手塚伸吉さん)

この記事は、平成 16年 1月 24日に取材・撮影したものです。
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