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TOPICS MATSUMOTO
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季節の話題 TOPICS MATSUMOTO 2000

 このページは、管理人ひろさくが各地を訪ね拾い集めた「季節の話題」のなかから、徒然なるままに書き記したものです。特定の分野に限定せず、管理人の思いつくまま、気の向くまま、町や村の話題を取り上げていますので、関心を持たれた場所だけご覧ください。更新は不定期ですのであしからず。

 TOPICS MATSUMOTO 2000
  山形村に大型ショッピングセンターオープン ( 2000. 10. 26 )
  松本市大村 玄向寺のぼたん ( 2000. 5. 13 )
  松本市新村 岩崎神社の「川干し祭り」 ( 2000. 4. 29 )
  松本市島立 了智上人の墓 ( 2000. 4. 22 )
  弘法山古墳桜祭り ( 2000. 4. 22 )
  重さ約二百トン、よっこら、よっこら ( 2000. 4. 19 )
  松本市和田 窪田空穂の生家と記念館 ( 2000. 4. 13 )
  亀田屋酒造店の蔵開き ( 2000. 3. 19 )
  松本はあまり雪が降らないけど… ( 2000. 2. 9 )


大型ショッピングセンター「 i CITY 21 」

 山形村に大型ショッピングセンター( SC )「 i CITY 21 」オープン
 松本市に本店をおく「井上」( HP )が、東筑摩郡山形村下竹田で出店準備を進めていた県下最大級の大型ショッピングセンター「 i CITY 21 ( アイシティ 21 )」が完成し、二十六日にオープンした。総面積約 11ha (東京ドーム 8個分)という広大な敷地のなかには、本体の「井上」が運営する紳士服や婦人服、各種雑貨を扱う百貨店部門、三つの映画館(アイシネ)、NHK文化センター松本教室、女性スタッフを配置した八十二銀行のブランチショップなどが入居。長野県内初出店となる家電量販店の「ベスト電器」(本社=福岡市)も大規模な売り場を設けている。

 オープンに先立ち、前日の二十五日には友の会会員を対象としたお披露目が行われ、二十六日のオープン当日は、話題を聞いた一般客が開店前から列を作り、長いも畑の広がるのどかな田園地帯に誕生したショッピングタウンの開店を祝った。午前十時から始まったオープニングイベントでは、諏訪太鼓の演奏や関係者による挨拶が行われ、来店した客たちには風船が配られたという。
 管理人が訪ねたお昼頃の様子は、二千台分の車を収容できる自慢の駐車場のほとんどが埋まり、アクセス道路のひとつの県道新田松本線にも断続的ながら渋滞を起きるほどの盛況ぶりであった。また、お昼どきということもあって、店内の食事処はどこもいっぱい。気軽に入れるお馴染みのマクドナルドなどは、順番待ちに列ができるほどであった。

<管理人ひとこと>
 さて、このショッピングセンターについてですが、実際に具体化するまで、私も含め周辺の人々の多くは、「松本市内から離れた山形村に大規模店を開設して採算が取れるのだろうか」「既に店舗を構えている郊外店に対抗することが可能なのか」といった疑問がありました。そこで、個人的な意見になりますが、今回の開店について「良い点」と「今後の課題」を考えてみました。

 〜 良い点 〜
 ( 1 ) 東筑摩郡山形村は、松本平の西側、波田町と朝日村との間にある農村地で、特産の長いもを中心とした農地の広がるのどかな村でしたが、近年は松本市のベットタウンとして住宅建設が進み、人口増加が著しい地域として注目されています。
 今回「 i CITY 」が建設された場所は、松本市が整備した「臨空工業団地」のすぐ西側。すぐ脇を、山形村と松本市内を結ぶ県道新田松本線が、また近くには、梓川村・波田町・山形村・朝日村を経て塩尻市に至る幹線道路の「日本アルプスサラダ街道」が通り、アクセス面に関しては申し分のない場所に立地しています。将来的には、長野自動車道から分岐して岐阜県に至る高速道路のルートも近くを通る予定になっているので、これが完成すれば商圏の拡大も期待することができます。
 ( 2 ) 「 i CITY 」を、老舗百貨店である「井上」の企業イメージを受け継ぎながら、次世代を担う若者たちをターゲットにした品揃えをすることで松本平における流行の発信地にする、という関係者の考えがはっきり打ち出されている点については評価したいところ。車社会の現代において、いわゆる金銭が多少なりとも自由になる若者受けするような「店づくり」を優先することは、素人が考えても自然のことでしょう。駅前にある店のイメージをそのまま「 i CITY 」に移してしまっては出店の意味がないわけで、むしろマイナスイメージとなるかもしれません。

 〜 今後の課題 〜
 ( 1 ) しかし、「山形村」。駅前に立地する百貨店とは違い、常時来店客で賑わうか、ということになれば、アクセス面の改善・整備が行われただけでは、その問題が解決されたことにはならないかもしれません。なにしろ、松本市内から「 i CITY 」までは、あまりにも遠い。土・日曜日に出かける分には何ら問題ありませんが、平日ここまで車を走らせてまで出かける人たちがどれほどいるのか、一般的に考えても疑問です。また、現状において交通機関は山形村と市内を結ぶ路線バスだけしかなく、年配者が気楽に立ち寄れるものではありません。来店客に対しては、「 i CITY 」に行こう!という 目的意識が要求される ことになるでしょう。
 ( 2 ) 「i CITY 」が用意した二千台分の無料駐車場のあり方も今後の成り行きがどうなるか興味深いもののひとつです。郊外に店舗を出店する場合、「 i CITY 」ほどは必要なくとも、今や大駐車場を完備することは必須条件となっています。しかし、多くの人々にとって、その 利用状況が人気のバロメーター として見ていることは忘れてはいけません。もしこの駐車場が閑散とした状況が続いたなら、その店は凋落傾向にあると捉えられ、人々は敬遠することになります。大規模な駐車場を設けるには、それだけの集客力を常時確保する努力と覚悟が必要となるわけです。
 ( 3 ) 老舗百貨店としてのステータス。流行の先端を提供するということであれば、イメージを売ることも要求されます。関係者の方々はどのように思われているかわからりませんが、作業着や長靴ぐつ、サンダル履きで来店されることは、他の来店者にとってあまり良い印象を受けないことになるのでは? 「田舎の百貨店なのね」と思われないことが重要かもしれません。

この記事は、平成 12年 10月 26日現在のものです。 
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境内いっぱいの「ぼたん」鮮やか…。

 松本市大村 玄向寺のぼたん ( 2000. 5. 13 )
 松本市大村(浅間温泉〜美ヶ原温泉間)にある玄向寺では、毎年五月上旬から中旬にかけ、約 120種類 1200株のぼたん(牡丹)が見ごろをむかえる。
 玄向寺は、松本城主水野家の菩提寺。このぼたんは、先代と現在の住職が増やしていったものという。境内では、フジの開花とも重なり、甘い香りが漂うなかを、訪れた見学者らは鮮やかな彩りをしたぼたんの姿を楽しんでいた。
 庭園は、境内正面から本堂の階段を上がった左側にある。入口に「浄財」と記された庭園維持のための心遣いを納める箱が置かれているが、基本的には無料。駐車場完備(数台)。
 本年(平成十二年)は、開花に併せ、「第一回玄向寺ぼたん祭・雅楽演奏会」が、京都から雅楽師ら(京都・いちひめ雅楽会)を招いて催され、初演奏となる 13日午前 11時からの部では、近くの住民たちも大勢駆け付け、笙(しょう)、篳篥(ひちりき)、竜笛の「三管」編成による日本古来の音色に聞き入っていた。

 演奏会日程(平成十二年)
 [ 場所 ] 玄向寺旧本堂前( 松本市大村 681 )
 [ 日時 ]
 ・ 13日(土) 11時、13時、15時
 ・ 14日(日) 11時、12時、13時
 
この記事は、平成 12年 5月 13日現在のものです。 
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早朝行われる川狩りの神事川狩りの神事
堰へ魚が放たれる捕獲された「魚」

 松本市新村 岩崎神社の「川干し祭り」 ( 2000. 4. 29 )
 松本市新村の国道 158号線沿いにある岩崎神社(岩崎大明神)では、毎年四月二十九日に、全国的にも珍しい「川干しの神事」が行われる。これは、かつてここを流れていた梓川(現在の榑木川)が頻繁に氾濫し田畑を荒したため、困った農民たちが、岩崎神社の御祭神に防いだもらうために、川魚をお供えしたことがこの神事の始まりと伝えられている。「松本市史」にも、新村や三溝(さみぞ・東筑摩郡波田町)周辺は、梓川の氾濫著しく、農民たちは困窮を極めていたと記されており、本来課せられるべき「助郷」の役が、この二ヶ村については免除されていたという。自然災害を前に無力だった農民たちの歴史と切実な思いがこの神事には刻まれている。以下は、本祭の早朝に行われた「川狩りの神事」の記録。

 午前六時、神社を出発。神主を先頭に約三十名ほどの氏子らは、神事を行う波田町境の新村堰へと向かう(「松本市史」には、「栗林堰」で行われる記述があったが、今回行われた堰は「新村堰」であった)。天気快晴。しかし、気温は五度とこの時期にしてはかなりの冷え込みで、セーターにジャンパーを羽織っての参加となった。
 神事の会場は、神社から西方へ約 1. 5 km ほど歩いた田園地帯を流れる堰にある。普段は、梓川の取水口から取り入れた水が流れる堰も、今日だけは、ほんの僅かな水が底に残る程度の、いわゆる「川干し」状態となっていた。
 習わしでは、神事の後、干された堰に取り残された魚を捕獲し、これを神前にお供えしていたという。しかし、現在は用水路の改修によって従来のように魚を獲ることができなくなったため、予め生け贄用の魚を用意し、堰へ放した後、氏子らがこれを捕獲するといった手筈となっている。
 魚が堰へ放たれると、用水路の両岸に待ち構えていた氏子らは一斉に飛びこみ、手掴みで魚を獲り始めた。ところが、僅かの水しか流れていない用水路に放たれた魚は、「<水を得た魚>とは、こういった場面を指すのだな」などと感心させられるほどの動きをみせ、なかなか思うように掴むことができない結果に…。それを追いかける氏子たち。せっかく掴んだ魚が手許からするりと抜け落ちるたびに、カメラマンに囲まれた氏子らは思わず苦笑い。悪戦苦闘の末、ようやく全ての魚を捕獲することができたのは、それから十分後のことだった。
 御神酒を頂き、再び神主を先頭に神社へ。午前七時十分、神社に到着した魚は神前に供えられ、神事は無事終了した。因みに、安置された魚は、氏子らが食したという噂である。実際どのようになったのか、未だ確認してはいない。

 岩崎神社の由来
 松本市新村(にいむら)の国道 158号線にある岩崎神社は、仁寿三年( 853 )鎮座したと伝えられる社。伝説によれば、南安曇郡梓川村岩岡にある火打岩明神(岩岡神社)に鎮座する岩頭と、この神社に鎮座する岩頭とが地底で一つになっているといわれ、本殿下には「岩の崎」があることから「岩崎神社」とよばれるようになったという。

 祭りの行事日程 (平成十二年度)
 ・ 28日 宵祭 神事・浦安の舞
 ・ 29日 川狩りの神事 ( 6: 00 〜 7: 30頃 )
    本祭 ( 15:00 )
    漁業(御神体が鳥居まで出る) 引馬の神事・浦安の舞ほか
 
この記事は、平成 12年 4月 29日現在のものです。 
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了智上人の墓 (松本市島立)

 松本市島立 了智上人の墓 ( 2000. 4. 22 )
 了智上人は、歌舞伎でもお馴染み、源 義仲追討の宇治川合戦の際に、ライバル梶原景李をかわして先陣を切った佐々木高綱と伝えられる人物。鎌倉幕府成立後、高綱は高野山に上がり、親鸞聖人に学び念仏一途の生涯を過ごした。
 松本市島立の長野道即道脇にある墓は、この地で亡くなった高綱を葬ったと伝えられるもので、高綱の末孫と伝えられる乃木将軍が寄進した石灯籠もここには残されている。因みに、この近くに市立高綱(たかつな)中学校があるが、その名称は了智上人(佐々木高綱)から付けられたものだという。

この記事は、平成 12年 4月 22日現在のものです。 
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弘法山古墳から望む「常念岳」と双柳付近
古墳に咲く「ソメイヨシノ」

 弘法山古墳桜まつり ( 2000. 4. 22 )
 松本市並柳の弘法山古墳の桜が満開となり、周辺一帯が淡いピンク色に覆われた光景を市内各地から望むことができるようになった。今年は例年に比べ開花が若干遅れたが、市内の気温が平年並みとなった二十日以降、松本城や薄川の桜と歩調を合わせるかのように開花が始まった。
 ここの桜は、発掘調査や周辺整備が終了した昭和五十年代後半に植樹が行われたもので、成熟した桜の樹木が並ぶ他の名所と違い、全体的に若い枝ぶりであることが特徴。古墳周辺に設けられた遊歩道から、ゆっくり桜を鑑賞することができる。
 
 弘法山古墳
 中山丘陵の北側突端部にある弘法山古墳は、三世紀末期にこの地を治めていた有力者の墓で、昭和四十九年に行われた発掘調査から、古墳の形状は「方形」を前後に合わせた前方後方墳であることが判明した。全長は 66m 。遺骸は後方部中央の竪穴式石室に埋葬され、半三角縁四獣文鏡などの埋葬品もこの時出土している。昭和 51年 2月 20日に国史跡指定。

 名称 弘法山古墳
 所在地 松本市並柳 2丁目 1000番地 ( 松本市神田ニ丁目
 標高 652m
 史跡範囲 51235 平方メートル
 指定年月日 昭和 51年 2月 20日

この記事は、平成 12年 4月 22日現在のものです。 
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「蔵」の移転工事「ころ」を使って慎重に移動…。

 重さ約二百トン、よっこら、よっこら ( 2000. 4. 19 )
 松本市内伊勢町を中心に進められている中央西土地区画整理事業に伴い、土蔵造りの店として観光客にも人気のあった和食店「蔵」の移転工事が行われた。
 蔵全体の重さは約二百トン。通常は、解体した後で改めて立て替えられるのが一般的であるが、今回は当時の面影をそのまま残して移動させたいという施主の希望もあったため、事前にコンクリートで固めた土台をジャッキで持ち上げ、レール上に敷かれた「ころ」を使って移動させる方法で作業が進められた。

 以前、この界隈では同様の建物が数多く建ち並んでいたというが、急速に進む都市開発のなかで次第にその姿を消し、現在では僅か数棟が場所を移して保存されている。しかし、往時の姿をそのまま残しているものは少ないという。このようなことから、今回の試みは、景観作りを優先するあまり、旧来の姿を歪めて移築される安易な移転および保存方法に対して、今後の手法として一石を投じる結果になったかもしれない。
 参考までに、今回の「引き家工事」は、民家再生に定評のある地元建築業者の山共建設(南安曇郡三郷村)と降幡建築設計事務所(松本市島立)が担当した。

この記事は、平成 12年 4月 19日現在のものです。 
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窪田空穂の生家窪田空穂記念館

 松本市和田 窪田空穂の生家と記念館 ( 2000. 4. 13 )
 松本市和田に、歌人・窪田空穂の生家と記念館がある。正直なところ、松本で生活するようになるまで、窪田空穂という人物のことは全く知らなかった。たびたび仕事で近くを通ることがあったことから、時間があったら立ち寄ってみよう…と思いつつ、結局、訪ねることができなかった場所でもある。

<管理人ひとこと>
 彼の業礫については、生家前に建てられた碑に詳しく記されていましたので、参考までに引用しておくこととします。

 窪田空穂の生家 (記念碑の碑文を引用)
 窪田空穂(本名・通治)は、明治十年、窪田庄次郎、ちかの次男として、この家で生れ、青年期まで過ごした。松本高等小学校(現在の開智小学校)時代は、ここから往復約四里(約十六キロ)の道を通学した。明治三十二、三年ごろ、この和田村にいた太田水穂と出会い短歌の道に入った。
 空穂はその後、上京して東京専門学校(現在の早稲田大学)に学び、卒業後は、新聞、雑誌記者を経て、母校の教授となった。歌人として、国文学者として、すぐれた業績を残し、昭和四十二年、九十一歳で没した。
 この家の母屋は、明治十年に改築されたもので、平成四年、市が往時の姿に復元した。庭には池や樹齢三百年余に及ぶ高野槇があり、空穂の歌にもしばしば詠まれている。離れは明治二十九年、両親が隠居所として建てたもので、空穂が疎開していたこともある。
 生家の入口には、信州出身の書家、上条信山の筆になる「窪田空穂生誕之地」の碑があり裏面には
 この家の共にふりつつ高野槇 二百とせの深みどりかも
という歌が、空穂の自筆をもって刻まれている。

この記事は、平成 12年 4月 13日現在のものです。 
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訪問客で賑わう「蔵開き」蔵にある貯蔵タンク群
ショップ 「酒遊館」アルプスの伏流水を使って…。

 亀田屋酒造店の蔵開き ( 2000. 3. 19 )
 松本市島立にある亀田屋酒造店で、恒例の「蔵開き」が十九・二十日の両日賑やかに開催された。「蔵開き」は、本仕込みの時期を終え、しぼったばかりの新酒を披露する場。最近になって、「酒蔵見学」と称し、常時見学のできる体制を整えた酒造会社が少しずつ増えてきてはいるが、亀田屋酒造店のように華やかな「蔵開き」を行う酒造会社は極めて稀で、普段飲んでいる酒がどのように作られているのか、地酒ファンにはありがたい企画といえよう。
 松本に滞在するようになって、今年で三年目。勤務先の近くで行われる亀田屋酒造店の「蔵開き」にはかねてから興味があり、一度は訪ねてみたいと思っていたが、今年は担当している酒店の店主の強い勧めもあったことからようやく訪ねる機会をえた。以下は、その時の記録。

 亀田屋酒造店は、旧千国街道沿いに明治三年創業した酒造会社。アルプスの伏流水と「美山錦」など良質な安曇産米を使い、小谷杜氏と蔵人らによって精魂込めて作り上げる銘酒は、松本平を代表する地酒として人々に定着している。なかでも、大吟穣「秀峰 アルプス正宗」は、全国新酒鑑評会や関東信越国税局酒類鑑評会などで、金賞や優秀賞を受賞する逸品。「しっとりとした味わいは、冷やで飲むほどその効果がでてくる」と、地元出身の同僚が評価するものだ。
 高遠石工の藤森吉弥が製作したといわれる道祖神(天保十三年建立)の立つ正門をくぐり、現在の社長さんのアイデアで設けられたという「酒遊館」に入ってみた。江戸時代末期の慶応年間に建てられたというこの土蔵は、もともとは蔵人たちの寝部屋として利用されていた建物で、昭和初期の頃には二十人ほどの蔵人がここで寝起きし、精米・仕込み・上槽に至る一連の酒造りに携わったという。現在は、一階が亀田屋ブランドの酒が試飲・購入のできる店舗、二階は、当時の寝部屋を再現した展示館として、酒造りに使われた道具や使用人たちとの就業契約、仕込帳、売上帳といった文書などともに公開されている。かつては、二十枚もの畳が敷かれていたという部屋に華やかさはないが、厳しい寒中の最中、酒造りに執念を燃やした蔵人たちの息遣いが聞こえてくる、そんな趣がここには残されている。
 「酒遊館」右隣にあるのは「貯蔵庫」と「仕込庫」。常時見学は可能だが、自由に出入りできるのは「蔵開き」の時だけ。大きな緑色のタンクが、薄暗い部屋のなかに整然と並んでいる様子を見ることができる。
 以前は、「酒が汚れるから」などの理由で、女性は立ち入ることができない時代もあったが、時代の変遷とともいそのような慣習は風化し、今日では誰もが立ち入ることのできる酒造蔵も増えているという。ここでも、下足を脱いで蔵に入るという衛生上の制約を除けば、誰もが蔵を見学できるようになっている。
 今回の「蔵開き」に際して、酒造店側では「酒造り」の行程を分かり易く紹介した「酒蔵の年中行事」と題したパンフレットを用意し、質問については係員が直接応じるという配慮がなされていた。もっとも、酒造りは職人によるものだから、素人の我々には理解できない領域もあるだろうが、地元の酒に親しんでほしい、という、このような気配りはうれしいものである。
 案内によれば、酒造りは概ね次のような過程で行われているのだという。始めに、昨年秋に収穫された原料米(精米)を「水洗い」した後「蒸し」の作業を行い、続いて「麹造り」「酒母造り」と素材が造られる。続いて、タンクに「酒母」が移されると「仕込み」の作業が始められ、麹(こうじ)、蒸し米、水を三回に分けて仕込む「三段仕込み」という方法で順に発酵させる。白くとろとろした醪(もろみ)に櫂をいれて、発酵の度合いを均一にする作業は、寒仕込みの作業としてお馴染みの光景だ。
 さらに、「搾り(酒と酒粕に分離)」「火入れ(殺菌)」が行われ、できた酒は貯蔵タンクに入れられる。「ろ過」「割水」はその後の行程で、「瓶詰め」を経て、ようやく商品が完成する。「ろ過」「割水」は、後日酒店の店主にお聞きすると、「ろ過機」にある網目の粗い膜、細かい膜に貯蔵タンクの酒を通すことで、粗いものからは「にごり酒」を、細かいものからは「生原酒」を抽出されるそうだ。この時のアルコール度は概ね 19度。これに自慢の水を加えアルコール度を調整し飲みやすい酒にする。機械化が進んだとはいえ、発酵具合や貯蔵温度などの管理は、職人の技に頼るところが多く、杜氏や蔵人らの責任は大きい。
 最後に、造り酒屋の面影を色濃く残す母屋を訪ねてみた。案内によると、この建物は、明治 18年( 1885 )から二年がかりで建てられたもので、部屋数は驚くことに二十を越える大きなもの。当時、ここでは酒造業と平行して白木の販売も行っていたそうで、建物には檜(ひのき)を代表とする木曽の材木がふんだんに使われているという。帳場や奥の酒蔵まで続く土間、天窓まで吹き抜けの「おえ」とよばれる部屋、小座敷、下座敷、角座敷など、今日ではあまり見ることのできなくなった伝統的な佇まいが公開されていた。
 普段は、最も奥に位置する「角座敷」その手前の「下座敷」については公開されていないようであるが、休日や時間外でも事前に予約があれば見学することができるようなので、興味があれば訪ねてみてはいかがかと思う。

 酒類に関しては、既に数多くの著書が発行され、酒の製造方法を知る機会は多分にある。しかし、素人には甚だ理解し難いものが多く、著者の自己満足だけに終始してるものも少なくない。「百聞は一見に如かず」。実際に見て、その場の雰囲気を感じ取ることが理解への早道と考えるならば、こうしたイベントに興味本位であっても訪ねてみる必要があるように思われる。

 亀田屋酒造店 松本市島立 2748
 TEL 0263-47-1320 FAX 0263-47-7056
 [ 見学時間 ] 10: 00 〜 17: 00
       … 母屋の見学については、予め予約が必要
 [ 休日 ] 年末年始( 12月 31日〜 1月 3日 )、お盆、臨時休み
 [ アクセス ] 長野道松本ICから波田・上高地方面へ1キロ
       … 国道沿いに表示あり
 [ 駐車場 ] 大型バス、一般乗用車完備

この記事は、平成 12年 3月 19日現在のものです。 
このページの記述は、管理人個人の見解であり、合名会社亀田屋酒造店とは一切関わりありません。 
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国道 19号線高宮南付近国道 147号線梓橋付近

 松本はあまり雪が降らないけど… ( 2000. 2. 9 )
 西高東低の冬型の気圧配置になると、どんよりとした雪空に覆われる北部とは違い、松本市内では逆に晴天となることが多い。せいぜい梓川から北の地方(豊科町・梓川村以北)で多少雪がちらつく程度で、写真左(平成 12年 2月 9日午前 7時、国道 19号線松本市高宮南交差点付近で撮影)のような光景が見られるのは、極めて稀なことである。

 放射冷却現象
 では、「冬は快適に過ごせるのか?」ということになるが、雪が降らない代わりに厳しい寒さが続く。これは、 放射冷却現象 によるもので、長野のように雪雲が低く垂れ込めていると、その雪雲が地表から放出される熱を遮ってくれるのだが、松本のように快晴が続くと、日中暖まった地表の熱がすべて逃げてしまうため、地温も気温も低下してしまうのである。最低気温が氷点下10度を記録することも珍しくない。
 トイレも凍る
 管理人の勤める会社では、前日帰宅する際に、凍結防止のため無駄でもトイレの水を少しだけ流しておく。トイレの設備が北側にあるため、水洗用のタンクが凍ってしまい、お昼頃まで使うことができなくなってしまうからである。一回分に水は流れるが、二回目以降の水が供給されないため便器に水が流れないのである。万一の場合には、バケツに水を汲んでおくが容易なことではない。検針のおばさまには「漏水しているのかね?」などと聞かれてしまうこともしばしば…。
 自動車の管理
 この寒さのため、フロントガラスはもちろんのこと、車体全体が冷凍庫から出てきた状態になっている。ドアを開ける時などは「バリバリ」と音をたてるし、エンジンをかけても最低十分は車内を暖めないと溶けない。古いバッテリーではエンジンがかからなくなることもある。車内に置いておいた飲みかけの缶コーヒーが、翌日氷の塊になっていた、そのような寒さが厳冬期には続く。参考まで。

 渋滞する梓橋、でもそれ以上に驚くことは…
 国道 147号線に架かる梓橋の渋滞は通常午前八時頃がピークだ、といわれている。市内から豊科町・三郷村方面に向かう車も多いが、反対車線の渋滞はその比ではなく、午前七時半にここを通過した際、松本市内に向かう車の列は梓橋から間々部(豊科町)交差点まで約1キロ。八時頃には約2キロ先の間々部北交差点ぐらいまで伸びていたのではないか、というほどだ。

 市内に入るための橋は、上流から 倭(やまと)橋、中央橋、そしてこの梓橋と三つの橋が梓川に架けられている。しかし、どれも渋滞がひどく、「通勤時間を早めた」「橋までのルートを変えた」という話題が挨拶代わりに使われているほど。また、豊科以北の通勤車については、橋の渋滞を避け、豊科ICから松本ICまでの一区間だけ高速道路(普通車 350円)を利用しているものの、降り口となる国道 158号線(上高地線)でやはり渋滞に巻き込まれることから、何れにしても通勤者にとって朝は通勤前の一仕事として苦労が絶えないようだ。結論とすれば、午前七時半前に梓川を渡るべし、といったところだろう。
 ところで、渋滞よりももっと注意しなくてはいけないことは、冬期間の降雪である。松本市内の積雪よりも梓川を渡った豊科町や三郷村の積雪のほうがはるかに多く、塩化カルシュウム(塩カル)の散布が行われていないと、スリップ等の事故を起す可能性が高くなるからだ。
 写真(右)は、平成 12年 2月 9日の午前 7時 30分頃、国道 147号線(糸魚川街道)梓橋付近を松本市側から撮影したものだが、路面が凍り、その上に積雪のあったことがわかる。前日の日中に溶けた雪が凍り、その上に雪が積もる路面は、根雪の上に雪が降り積もる長野の路面と違う、松本独特のものでもある。
 取引先の営業マンは、松本市内が快晴でも、梓川村や三郷村(とくに山際の小倉周辺)などでは雪が降っている場合があるので、雲の流れを見て出かけることが多い、と話していた。何かの参考になるかもしれない。

この記事は、平成 12年 2月 9日現在のものです。 
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